フリーペーパー うぇるかむ

「うぇるかむ」は、東日本大震災により、山形県へ多数の方が避難されたことをきっかけに、2011年8月に創刊されました。詳しくはこちらをご覧ください
川俣町出身 南陽市 菅野 輝雄 さん

Q 災前はどのように過ごしていましたか?

 37年間製紙会社に勤務しており、労働運動をしていました。当時は、労働委員の委員長として、ソビエト連邦の首都モスクワとフランスにも行きました。その後はセメント会社に転職して資格を習得し、マンホールやU字溝を作っていました。退職後は海釣りなどをしながらのんびりと過ごしていました。

Q 震災時~避難までの様子を教えて下さい。

 震災当時は、南相馬市の原町区に住んでいました。その日はグランドゴルフをしていて終了後に大きな揺れを感じました。近くにあった工場の煙突が大きく揺れ、とても驚いたことを覚えています。急いで自宅に戻り家族の無事を確認しました。自宅は幸いにも電気・水道はとまっていませんでしたが、原発の事が気にかかり、14日に娘と妻と伊達市霊山町を経由し仙台市に避難しました。仙台市はどこも避難者で溢れており、その足で猛吹雪の中、上山温泉に避難しました。上山温泉は震災の前年に行ったことがあったので、なじみの温泉でした。その後は上山市の体育文化センターを経由して、現在の南陽市に移りました。直後は旅館に避難をしていて、食事など無償で提供していただきました。何か恩返しは出来ないかと感謝の想いもあり、連日ボランティアで温泉や公共施設などの草とりやお風呂の掃除などをしました。そしてその年の9月に南陽市雇用促進住宅に入居しました。当時は入居時に必要だった家電製品の無料支給もあり大変助かりました。

Q 南陽市に来てからはどのように過ごしていますか?

 以前は全て妻に任せていましたが、避難後は家族のために毎日料理を作りました。南陽市社会福祉協議会主催の料理教室にも月に1回参加して、鮭のちゃんちゃん焼きや手羽先・キノコを使った料理などを習い、今ではレパートリーも増えました。
 毎日の日課として、新聞のスクラップを作っています。皇室・山形山の花・避難の記録・スポーツなどジャンルに分けて張り付けています。現在は700冊ほどのスクラップブックがあります。
 平成3年から始めた篆刻も「菅野松雲」の雅号で福島県篆刻会図録にも掲載されました。以前、原町区の自宅の近くで採取した石に、自分の名前・住所を刻んだ印章を作成しました。細かい作業ですが一日もあれば作成できます。当時の原町市の住所が刻まれている印章は今でも大切にしています。
これからの季節は大好きな山菜の収穫をします。

避難者へのメッセージ

 南陽市に避難後の一昨年、妻を亡くしました。突然の別れでしたが、悲しみを乗り越え今は前向きに日々を忙しく過ごしています。
 福島県篆刻会図録にも掲載された言葉「朝有紅願」(ちょうゆうこうがん)とは人の一生は変わりやすく、儚いことのたとえで、健康な若者が、不意に死んで骨になってしまうくらい、人生は無常で、人間の一生ははかないということです。この言葉を心にとめて毎日悔いのない日々を送っています。

☆菅野さんと連絡が取りたい方は下記までお問合せください。お繋ぎします。
【お問合せ】復興ボランティア支援センターやまがた
TEL:023-674-7311