フリーペーパー うぇるかむ

「うぇるかむ」は、東日本大震災により、山形県へ多数の方が避難されたことをきっかけに、2011年8月に創刊されました。詳しくはこちらをご覧ください
浪江中浜復興工事現場事務所勤務  南相馬市 志賀 恭子 さん

浪江中浜復興工事現場事務所勤務
元鶴岡市社会福祉協議会生活支援相談員  南相馬市 
志賀 恭子 さん

 

Q 震災の時はどこにいましたか?
 震災の時は南相馬市役所の教育委員会に勤務していました。窓の外からは、電柱や家が揺れ電線が切れているのも見えました。その後、駐車場に避難し、崩壊したブロック塀や地割れの中、徒歩で帰宅しました。自宅にいた両親は車に避難していました。その後、原発の情報を聞き、地元での救援活動を望む父親を説得して、弟のお嫁さんの実家がある二本松に一時避難し、その後、叔父がいる鶴岡市に2011年3月に避難しました。

Q 避難先ではどのように過ごしていましたか?
 民生委員が叔父の家に来てくれたことをきっかけに、市役所にて避難者登録をし、鶴岡市にも多くの避難者がいる事を知りました。鶴岡市は避難所が数か所に分かれていたので、すぐに南相馬市からの避難者と会うことはできませんでしたが、避難者登録をした事で情報が入るようになりました。借上げアパートも検討しましたが、犬や猫も一緒に避難していたので叔父の家に最後までお世話になりました。
 2011年4月に、鶴岡市社会福祉協議会の臨時職員に採用され、その後、生活支援相談員になりました。慣れない環境の中でがんばっていた避難者の方たちに接して、同じ被災者・避難者として、友人や親族と同じ様に相談に乗り、情報共有のお手伝いをすることができました。このような機会をいただき、山形県や鶴岡市、鶴岡市社会福祉協議会の方々には本当に感謝しています。
 相談員をしながら3年間鶴岡市で避難生活を過ごし、その後、先に帰還した両親が待っている南相馬市の自宅に戻りました。

 

Q 帰還後はどのように過ごしていますか?
  戻ってすぐは、友人たちが避難していたり亡くなっていたために、以前と違うこの場所には自分の居場所がないと感じました。でも、変わらずにいる友人や家族、自宅もあったので、そのような現実に目を向けるよう心がけました。
 帰還後2年間は、相馬市教育委員会の仕事をしていましたが、就労時間が長く、両親の通院への付き添いも必要だったので、フレックスタイム制の「浪江中浜復興工事現場」の事務職に就きました。今の仕事に就いてから、避難解除の前から復興工事をしてくれている人がいた事を知りました。福島県の復興を、地元と他県の方々が協力して実現してくれています。安全で立派な防波堤を作るために、北海道や庄内などの遠方から、家族と自分の健康も顧みずに勤務している人もいます。未来に向けて美しい防波堤が作られていく様子を日々見ることができ、とても感謝しています。

避難者へのメッセージ
 個人で時間の流れが違うので、人と自分を比べないでほしいと思います。自分の目で現状を見ると、震災で破壊された所も現在は綺麗になり、新しく生まれ変わった場所もあります。心配になる事もあるけど、自分が見たまま感じたままで良いと思うし、自分に関わる現実を整理して出た答えが「正解」だと思います。「正解」が途中で変わる場合もあるけど、それでもいいと思います。辛くなるものを抱えこまないで生活していけたらと思います。

 

☆志賀さんと連絡を取りたい方は下記までお問い合わせください。お繋ぎします。
【お問合せ】
復興ボランティア支援センターやまがた
TEL:023-674-7311