フリーペーパー うぇるかむ

「うぇるかむ」は、東日本大震災により、山形県へ多数の方が避難されたことをきっかけに、2011年8月に創刊されました。詳しくはこちらをご覧ください
それぞれの声
今回は、宮城県から山形に避難している方にインタビューしました。
■~宮城県からの避難(放射能)~
Q1 どんな経緯で避難しましたか?
 宮城県県南地区から来ました。震災が起きたとき、子どもは2歳でした。
 電気、ガス、水もなく、最初は津波から逃げて車中泊していました。自分の家は流されませんでしたが、原発が危ないと聞いて、山形の実家に逃げてきました。当初地元の線量は1.2μSv/毎時くらいです。
 はじめは短期間の避難のつもりでしたが、放射能の情報を得るうちにやはり宮城には帰らないほうがいいと思い、最終的に長期避難を決めたのは6月頃だったと思います。
 町の半分が流されていて、夫の実家も津波で流されたので、「放射能が怖い」とはなかなか言えませんでした。宮城には家もあるし、夫は仕事を辞めることはできないので、母子避難しています。
 夫と一緒に住みたいけど、夫は避難を理解してくれているし、避難後もう一人妊娠したので、やはり山形での暮らしを選んでよかったと思います。
Q2 これからの生活に望むことは何ですか?
 帰りたいと思ったり、帰りたくないと思ったり、行ったり来たりの毎日です。
来年、上の子が小学校に入ります。「宮城からの放射能避難」がまれなケースで、地元であまり公言できない辛さがあります。
避難先ではあたたかく受け入れていただいて感謝しています。反面「線量は大したことないのに・・」という言葉は今でも傷つきます。
 福島と違って高速代も補償はないし、ADRは頑張ってみましたが認められませんでした。
 何も後ろ盾がないけど、将来の病気や土壌汚染なども考えると、やっぱりまだ山形にいたい。
 今は夫と離れた生活ですが、やっぱり子どもの成長にパパが必要と感じることが多くなれば、また一緒に住むことも考えたい。子どもたちが巣立っていくときに、「親として考えてここまでしたよ」と伝えられるように、夫婦で話し合っていきたいと思います。
 私の中で「避難」は時間で決めていくことではないような気がします。地元の人には「いつ帰ってくるの?」と言われてしまいますが、避難している原因(放射能)が無くなる時をみて、帰る時期を決めていきたいです。
■~宮城県からの避難~
Q1 どんな経緯で避難しましたか?
 津波の後2、3日は地元の避難所にいました。犬を飼っているので、車で生活していました。石巻ではライフラインもなかなか整わない中、米沢の大学に行っていた息子と連絡がとれ、米沢の避難所でしばらく過ごしました。
 石巻の仮設住宅に申し込んでいましたが、米沢の借り上げ住宅制度が始まってすぐ、入居しました。
 借り上げ住宅に入居すると、「石巻の仮設住宅への申込みを取り下げてください」と石巻市に言われ、県外の借り上げ住宅に入ったら石巻の仮設住宅には入れないと知り、驚きました。
Q2 これからの生活に望むことは何ですか?
 仕事をしたいと思っていますが、まだ見つかりません。
 面接時に「宮城避難の人も国から補償をもらっているんですか?」と言われたり、なかなか理解されないこともあります。
 仮設住宅の申し込みを取り下げるよう言われた時点で、石巻に戻る気持ちはなくなりました。石巻の復興住宅に入ったとしても、それからまた仕事を探すのも大変ですし、妻は海の近くには住みたくないと言っています。
 宮城には戻りたいと思っているので、仙台か、海の近くではないところへ住めたらと思います。前向きに頑張ろうと思っていますが、思うように前に進まないのが現状です。
★写真は、宮城避難の方の作品(ストラップ、シュシュ)です。