福島県南相馬市から避難した方のうち、その後「帰還した方」と「山形県内に移住した方」に同じ内容でインタビューしました。現在、避難生活をおくる方々が今後のことを考える際の一助となれば幸いです。
☆帰還しました
Q1.帰還を決意したきっかけは?
長女の小学校入学に合わせました。親の精神面のストレスが限界だったこともあります。
Q2.帰還して「良かったこと」と「大変なこと(想像と違ったこと)」は?
「良かったこと」は、身近な頼れる友人や親族がそばにいる生活環境になったことです。
「大変なこと」は、水とか野菜を選んで購入しているので家計の負担が震災前や避難先の時より増えました。
ある程度想像していたのですが、こんなに負担が増えるとは思いませんでした。
子どもの健康面も常に心配です。先日長女(小学1年)の甲状腺検査だったのですが、昨年までの検査ではA判定だったのが、A2判定(※)になってしまいました。帰還が関係ないかもしれませんが、気になります。
子どもの精神面のストレスも心配しています。遊び場には連れて行っていますが、外遊びがいつでもどこでも自由にできるとは言えない現状なので、次女(3歳)がガマンできずかんしゃくを起こすこともあり、それが気になっています。長女は理解して行動できているので、次女も年齢と共におさまるのかなと思っているのですが。
Q3.これから帰還・移住を決断する人たちへのメッセージをお願いします。
皆さんもとても迷っていることと思います。自分は帰還しましたが、やはり一人一人の決定なので、おすすめできることを思いつきません。自分たちとしては、ここで自分たちにできることに気をつけて生活してみます。
※A2は「5.0mm以下の 結節(腫瘤)あるいは20.0mm以下ののう胞」。A1は「結節(腫瘤)、のう胞を認めない」。A1もA2も「次回検査まで経過観察、二次検査の必要なし」とされている。判定結果が「B」になると「5.1mm以上の 結節(腫瘤)あるいは20.1mm以上ののう胞」となり「二次検査の必要あり」になる。
南相馬市内の小学校のモニタリングポスト(※Hさんのお子さんの小学校ではありません)
☆山形に移住しました
Q1.移住を決意したきっかけは?
震災から3年と5ヶ月たとうとしている今、一生を山形で暮らす事を決意しました。当初主人は、望郷の思いに苛まれ、心が揺れていましたが、東京に住む娘より、「地元に戻るなら、もし結婚して子供が出来ても会いに行かないし、孫の顔も見れないと思ってね」の一言で心が決まった様でした。
Q2.移住して「良かったこと」と「大変なこと(想像と違ったこと)」は?
原発が爆発した時、浜通りには地を這う様に、重たいストロンチウムやトリチウムが降り、軽いセシウムが遠くまで飛んだ様です。今は空間線量は山形とあまり変わらない数値になりましたが、土壌の汚染を考えると、とても住める所とは思えません。家族で築きあげて来た生活が、根底から崩され、新しい地でいちから歩いていかなければと思った時、失なった物の大きさに涙した事もいく度か有りました。
タイムスリップが出来るなら、震災の前に戻れたら、多くの知人、友人の死を防ぐ事が出来たのにと、悔しく思います。地元では、ご町内の方、全員と顔見知りで親しかったのですが、知らない地で、福島と言う偏見と、よそものという壁を感じたり、心の痛む時も有りました。私達は幸いにも、とても良い人たちに巡り逢って、助けられて来ました。一生この方々との出会いを大切にしてお付き合いをしていきたいと思ってます。そして、難破船に乗り海を漂っていた3年間でしたが、やっと陸に上がって、自分の足で歩くことが出来て、少し心が軽くなりました。まだ日も浅く、御近所さんとはこれから月日を重ねて親しくなれればと思ってます。
Q3.これから帰還・移住を決断する人たちへのメッセージをお願いします。
私達は移住の道を選びましたが、それぞれの家庭で、それぞれの事情が有り、帰る人も、残る人も悩んだ末の苦渋の選択と思います。移住は考え抜いた結果なので、後ろを振返らず、前向きに歩いて行こうと思ってます。
*来月は、自主避難者の方で「帰還された方」と「山形に移住した方」を掲載予定です。